心とは何か?心の元にあるものは?植物に心はある?心の場所は?

心とは何でしょうか?

心は目に見えるものではありませんが、人の心には確かに私たちに影響を与えるもので、

時には自信を持てることもあれば、自信がなくなることもあるのも心ゆえだと思います。

それでは心とはどういったものなのでしょうか?

心の元にあるものは何なのでしょうか?

心はどこにあるのでしょうか?

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心とは何か?多面的な性質を持つもの


(出典「photoAC」)

心とは何なのでしょうか?

心からは様々な感情が湧き上がってきます。

喜怒哀楽はもちろん、不安になることもあれば安心することもあり、

愛する気持ちを持つこともあれば、憎しみや妬みを持つことも。

また自分に対する自信が持てることもあれば自己嫌悪に陥ることもありますし、勇気が湧くこともあれば臆病になることもあります。

時には納得できる時があったり、納得できない時もあったり、

温かい気持ちになることもあれば、冷たい気持ちになることもあります。

心の変化は様々で、自分の周りで起こったことに対して心が反応することもありますし、

自分で考えたこと、例えば過去を振り返ったり将来を考えることで、心の中から湧き上がってくる気持ちや感情があります。

外部の変化や内部の変化で、様々な変化を遂げるのが心と言えます。

心からは先ほど書いたような様々な気持ちや感情が湧き上がりますが、心の中には常に様々な気持ちや感情のタネがあって、

何かが周りで起こった時や何かを考えた時に、その心の中にあるタネが成長したり急に膨らんだりすることで気持ちや感情が動くような、そんな印象もありますし、

様々な気持ちや感情はプラスとマイナスが常に対になっていて、気持ちや感情が動くときはプラスに傾くかマイナスに傾くかという違いもあるのかもしれません。

また心の中にある感情や気持ちは、どれか一つということもありますが、気持ちや感情は常に一定ということはありませんし色々な気持ちが混ざっている場合も多いと思います。

何かを決断する場合には「何の迷いもなく」ということもあるかもしれませんが、あっちはこうで、こっちはああで、と気持ちの微妙な揺れがある中で、限られた時間の中で決断を下すこともあるような気がします。

そう考えると心にあるものは複雑で、気持ちを一言で表すことが難しい面があると思いますし、そういう意味では心には多面性があると言えるのかもしれません。

それだけ心の中は様々な気持ちや感情のタネがあって、心の中はグラデーションのように様々な感情が混じっていると言えるかもしれませんし、

そのタネの膨らみ具合の違いが心の中では様々に点在していて、いつも揺れ動いているように思えます。


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心とは何か?心の元にあるものとは?


(出典「photoAC」)

それではそんな心は私たち人類だけに宿っているものなのでしょうか?

生命はこれまで長い歳月をかけて進化してきましたが、私たち人類だけが突然心を持ったと考えるのは無理があるように思えます。

全ての生き物には心が宿っていると思いますし、その心の元にあるものは生存本能ではないかと思います。

生存本能があるから子孫を残したいと思い、だから恋をする。

生存本能があるから生き延びることに不安を感じ、また外敵に怖さを感じる。

また心は傷つくこともありますが、それも自分の身を守るための心の防御反応だと思いますし、

良いことがあれば嬉しいのも、生き延びるために好都合だからと言えるのかもしれません。

そう考えると様々な感情や気持ちを湧き上がらせているもの。それは生存本能なのかもしれません。

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コメント

  1. 永井哲志 より:

    心は脳全体が一つの臓器となって、生み出される機能と考えています。

    • 戸高基史 より:

      永井さんはそうお考えなのですね。

      明確な答えがないことでもあり、そこには様々な考えがあるのだと思います。

      これはあくまで私自身の考えにすぎませんが、

      心は生きとし生けるもの、全てに宿っているのではないか?と考えています。

      私は心の根本にあるものは生存本能のように思えていて、

      心があるから不安を感じ、そのために生命は進化を遂げたようにも思えるのです。

      植物を見ていると、その多様性はそれは見事なもので、

      タンポポのように風でタネを飛ばすものもいれば、

      タネを動物にくっつけて運ばせるものがいたり、

      実を食べさせてタネを運ばせる植物もいれば、

      花や蜜でおびき寄せては、花粉を受粉させる植物もいて、

      植物は、風や他の生き物を利用さえしています。

      私はそんな植物の姿を見ると知性さえ感じますが、

      逆に言えば、植物はそこまでして生き延びようとしています。

      ですので私自身は、植物にも人間と同じではないとしても、

      心=生存本能を宿しているのではないか?と考えている次第です。

    • にいや より:

      「こころ」の発生を「細胞」レベルで考えていますが、細胞はこころの発生する環境と位置付けています。その様に考えないと、心に関する色々な事象の説明がし難いのですが。因みに心は脳部位から出た情報だけを言うと言い切れるのでしょうか。「こころ」の真相については、分子論的な考察を必要とすると考えているのですが。

  2. 新矢時寛 より:

    心身医学でも、最近の相関的二元論の登場などで意識(心)と物質(脳)の関係は解決されていませんが、唯物論やニュートン力学の古典的解釈での立場からは、何時まで経っても明らかにできません。植物であれ人間であれ、それを構成しているのは原子分子はじめ極微小の粒子やその性質の問題であるからです。大きな物質の世界と全く異なる学問体系で議論、すなわち、量子力学の化学への応用である量子化学的な発想でないと解明できないのは自明です。極微小物質では、物質やその変化、外部からの影響による変化などは、電磁波(光、こころ)を同時に伴うものであることが明らかになっているのです。その基盤で心とは、何処からどの様に発生するのかを研究中です。近い将来徐々に明らかにされていくことでしょう。

    • 戸高基史 より:

      コメントありがとうございました。心がどこからどのように発生するのかを研究なさっている方なのですね。

      ここに記載したように、私自身の考えとしては心は生存本能からきていると思いますが、

      その生存本能がどこから発生しているのか?

      単細胞生物にも生存本能は宿っているはずで、

      非常に興味が尽きない話ですし、研究がお進みになることを心より願っています。

      ありがとうございました。

      • 新矢 より:

        この辺で「こころ」と言われている言葉の定義を見直す必要があると思っています。人は言葉をもち、多くの動物は言葉を持たないが故に「動物にはこころが無い」と言われている様ですねえ。それを見直さないと意思の疎通ははかれなく先に進めないのでは?単細胞生物にも生存本能は宿っているが、現段階では、心はあるとは言えません。真言密教の開祖弘法大師の「十住心論」にも既にあるのでご参照ください。戸高さん提案の「心=生存本能を宿しているのではないか?」は、非常にあいまいで、小生には疑問をいだきますねえ。「心=生存本能も含まれる(宿している)という、のであれば、「十住心論」の本能の部分と似てきますねえ。

        • 戸高基史 より:

          コメントありがとうございます。

          私の考えを改めてお伝えさせていただきますと、

          「心=生存本能を宿しているのではないか?」というよりも、

          生命が生存本能を宿してから、生命は心を持つようになったのでは?と考えています。

          生存本能から心が発生しているイメージで、

          生きたいと思うからこそ、不安や恐怖を感じたり、

          自分に適した環境にいれば快適さを感じたり、

          また恋をするのも子孫を残したいという生存本能が根本にあるように思っています。

          私自身はそうした働きをする全てが「こころ」だと思っていますので、

          原始的な生命でも持っているものだと考えています。

          また「動物にはこころが無い」と言われているそうですが、

          私自身の「こころ」の定義から考えますと、

          私自身は動物には心が無くて、人間だけが突然心を持つようになったというのは、

          個人的には理解できない部分があります。

          とはいえ生命の種によって、心のあり方は違うとは思います。

          例えば猫は単独行動を好んで群れませんが、

          集団生活を営む種類の生命とは、心の働きが違うように思います。

          • にいや  より:

            「こころ」の定義を曖昧にしたまま話し合っても意思の疎通は図り辛いです。一般に、「こころ」は「言葉」が係わった定義とされていると考えています。だから動植物には「こころ」が無いと言われて来たし言うのではないでしょうか。科学が進歩した現在、先ず第一に、定義の見直しを提唱したいのですが。

          • 戸高基史 より:

            コメントありがとうございます。

            仰っている意味はよく分かります。

            つまり私と新矢さまでは「こころ」の定義が違うので、話がかみ合わっていないと思います。

            一般に「こころ」には「言葉」が係ったと定義するのであれば、確かに言葉を使うのは人間だけですよね。

            ただそれでも私自身が思うのは、

            心が感じる不安や快適さなどは、何も人間だけが感じてきたものではないと思うんです。

            その意味では、私の中の「こころ」というものの定義は、

            動植物にも備わっているもの、という位置づけから離れられない気持ちが強いです。

            すみません、頑固で。

  3. にいや より:

    従来の物の考え方をもって話し合うのは無理が生じる程進化している時代に成って来たと思います。従って、「こころ」の定義を見直す必要があると思っています。「こころ」と「からだ」の関係の重要な問題にも係わるからです。「こころ」の再定義が上手く出来れば、戸高さんの考えがスッキリするのです。戸高さんの考えを生かす方向性を検討中です。ご期待ください。

    • 戸高基史 より:

      コメントありがとうございます。

      また私の考えを生かす方向性を検討していただくとのことで、誠に感謝の念に堪えません。

      あくまで私自身の考えをお伝えしたものにすぎませんが、

      新矢さまのご研究が進んで、「こころ」のことが解明されることを心の底から楽しみにしております。

      ありがとうございました。

      • にいや より:

        戸高さんのテーマである「心とは何か?心の元にあるものは?植物に心はある?心の場所は?」は私のテーマでもありますので、言葉の由来の当初から、矛盾(利用範囲を逸脱したと思われる)が生じた状況を整理したいのです。高齢化に伴う医療現場にも必要なのです。そもそも「こころ」と言う言葉は、物質(体)に対する精神性から出来たものと理解しています。精神性を他人に分かって貰う為に、ツ-ルとして「コトバ」が一番良いとして採用されたのでしょう。精神性は「物」と違って五感のうちの「目」には見えないので、感情などの事象は全て「こころ」と言ってきたのです。その気持ちが拡張されて、例えば、竜安寺の石庭の石(枯山水の庭園)にも「こころ」があると言う。この表現は仏教と深く係わっています。従って、「こころ」と「本能」を区別すべきで、本能から出た事象は、厳密に言えば「こころ」とは言わないと思うのです。弘法大師も本能を区別しています。長文になったので詳細は省略しますが、目で見えない事象など説明できない事を全て「こころ」と言ってる現状を問題視しています。

        • 戸高基史 より:

          コメントありがとうございます。

          ところで「こころ」と「本能」を区別すべきとのことですが、

          正直に申しますと、この意味が私自身は理解できずにいます。

          「こころ」には「意識」と「無意識」があると思いますし、

          無意識の領域には本能的な部分も含まれていると考えています。

          「三つ子の魂百まで」と言いますが、

          幼少期の体験がその後の性格を形作るのも、無意識の領域のことだと思います。

          実は私自身、幼少期に受けた心の傷がありまして、

          それが私の若い頃の性格に影を落としていた面がありました。

          若い頃は人見知りも激しかったですね。

          そんな若い頃の経験からも、「こころ」には無意識があると思いますし、

          意識と本能的な部分を含めた無意識という「こころ」があって、

          その上で人間らしい「こころ」の働きがあるとは思うのですが。

          ですので正直に申し上げれば、

          「こころ」と「本能」を区別すべき、という理由が私にはまだ理解できないでいます。

          すみません、やっぱり頑固で。

          • にいや より:

            謝って頂く事は全くありません。お互いに頑固に[ぎろん]しあって、真実へ収束し皆さんに理解され、多くの問題の解決に繋がると信じています。生物が発する事象の捉え方の問題ですから、体内の何物が原因で発せられているのでしょうか。それに尽きると考えています。その思考検討過程で、真言密教での十住心論の心の内の本能に注目し、科学的に分けたいとの考えです。本能と心を分ける事(心の再定義)で、他の多くの事象を矛盾無く説明出来るのです。(最新現代科学である量子化学での検討ですが、専門性が大きいので分かり易い記述法に苦慮しています)

          • 風雲 より:

            コメントありがとうございます。

            まずこころの定義について、にいや様のお考えとしては本能や無意識と「こころ」は別物だとお考えだと思います。

            私はそこがまだやはり理解できず、

            そうすると「こころ」というものは意識レベルのこと、つまり考えたり意識したりする領域のことだと思うのですが、

            一方では「こころの傷」については、波長が合うものがなければその状態が何時までも残るとお書きになっています。

            私の中では「こころ」が意識であるなら、「こころの傷」も意識のことですし、

            そうなると「こころの傷」を治そうと思えば、自分で治そうと考えたり意識したりすれば傷が癒えるということになるとは思うのですが。

            意識しても治らないから、こころの傷は意識の届かない世界のこと、つまり無意識のことにはならないでしょうか?

            「こころ」の定義がお互いに違いますので、この点を埋め合わせることがそもそも難しいと感じますね。

  4. にいや より:

    「こころ」には「意識」と「無意識」があると思います。については、唯識論での意識と無意識 に係り、本能や無意識で現れる事象は心と区別されるもの。とされているのではないでしょうか。
    「三つ子の魂百まで」については、「こころ」と「魂」の違いの問題に係わる事項と考えています。肉体的な傷は、物質的問題ですから体内代謝によって素早く回復しますが、「こころ」の傷は、物質と違って精神性(電磁波由来)ですから、波長が合うものが無ければその状態が何時までも残ります。精神性・電磁波は学問的にはその様な性質なのです。体内のミクロ粒子の現象とは異なりますが、良く似た性質現象がマクロな世界にあります。オンサの共鳴現象なのでイメージして下さい。
    以上のように考えますが、説得力ありませんか。不明な点があれば補足説明します。

  5. にいや より:

    現在、唯識論の意識、無意識(唯識8年と言うそうです、長時間かかりそう)や心と魂、怨念、霊感の違いは何なのか何処から発してくるのか等を考えていると、今まで各人が考えてきた次元より高次元からの整理作業が必要なのかなあと思えます。多くの人達がそれぞれ長年違った視点で議論してきたので統一的な事を見い出すのは大変難しい事は容易に理解されます。こころが病みそれが原因でアラユル面に世の中がどんどんおかしくなっているのが現状です。あきらめる訳にはいけない様です。何とかなりませんかねえ。