礼
礼の心には、感謝の気持ちを表すことと礼儀作法が、ここに含まれているのだと個人的には思います。
感謝の気持ちは思っているだけでは伝わりませんので「ありがとう」と表現することが大切なのだと思います。
そういえば大学に進学した関係で、関西に住むようになった時に、
レジでお金を払う側の人が「ありがとう」と関西弁で声をかけている様子を見て、
最初はお金を払っているんだから、何もお礼を言わなくても良いのでは。
そんな風に思っていたこともありましたが、
お店で働く人がいるから、楽しむことができますので、
そういう意味でお金を払っていても、
そこに携わる人に「ありがとう」と表現するのは気持ち良いもんだな、と思うようになりました。
また人に何かしてもらうことが当たり前だと思わないことも、大切なのかもしれません。
礼儀作法というと、若い頃には堅苦しいように思っていましたが、
それは実は合理的で効率性を重視した、動作の無駄を省いたもので、
また畳の縁を踏まないようにするのも、畳を大切に扱うため、という考えもあります。
そこには人の生活に必要な、様々なものを与えてくれる、
自然に対する感謝の気持ちとしての「礼」もあったはずだと個人的には考えています。
誠
(出典「イラストAC」)
誠意や誠実さを表すもので、何事にも真正面から向き合う心構えを表しているように思います。
自分の心に、
自分の人生に、
そして他人にも、
真正面から向き合う気持ちと言えます。
時には自分にとって不都合なことにも向き合うことが必要なこともありますので、
「誠」の姿勢には勇気が求められるのかもしれません。
また特に失敗した時ほど「誠」の姿勢は問われるように思います。
名誉
のちの世に、汚名が残ることは屈辱だと本物の武士は思っていたのかもしれません。
特に卑怯、臆病と言われることは、武士にとって屈辱的なことだったに違いありません。
卑怯、臆病とされないために、ここまで書いてきたような、
義、勇、仁、礼、誠の心が欠かせなかったのかもしれません。
ただ名誉には、本来の自身の誇りを意味する場合もあると思いますが、
時には強がりや意地、見栄の場合もあると思いますので、注意が必要だと思います。
また人の評価基準は、時代によって変わると思いますし、
戦場で武士が戦っていた時代と、平和になった時代とでは求められることは違ってくるとは思いますが、
それでも名誉は、外に見えるものではなく、
人として間違ったことをしているのかどうか、といった生き様に、
名誉や恥が求められるものであって欲しいと願います。
忠義
忠義の心は、下の立場の人が上の立場の人に忠節を誓うことで、
武士の忠義は命がけで忠義を尽くすことだったと思いますが、
現代では上下関係をきちんと守ることだと考えられます。
組織は、指揮命令系統がしっかりしていないとうまく機能しません。
上の立場の人の言うことを下の人が聞かなければ、組織で物事をうまく進めることもできなくなります。
そういう意味では上下関係を守るべきですが、武士が戦う戦場という場面では、
上の人が判断を間違えば、下の人たちは苦境に追い込まれることになりますので、
武士道としての忠義には、上の立場の人が間違えば、
命がけで諫言する(目上の人の過失をいましめる)ことも含まれていたのだと思います。
また上の立場の人には、仕事の能力はもちろん、下の立場の人についてきてもらうために、
これまで述べてきたような、義、勇、仁、礼、誠という心や人格も求められたことだろうと思います。
“自身の良心を、主君の気まぐれな意思や酔狂、妄想などに捧げた者たあちに、
武士道はきわめて低い評価を与えています。”
と、新渡戸稲造もただ主君に従うだけであることには、否定的な見方をしています。
(引用:いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ② 武士道 新渡戸稲造 致知出版社)
終わりに
新渡戸稲造の「武士道」は、それほど難しくないと思いますので、一度読んでいただければと思います。
ただ世界に対して日本の武士道を紹介した本ですので、
ヨーロッパの歴史や文化を交えながら書かれていて、
そうした部分で分かりにくい部分が、私にはありましたが、
新渡戸稲造の世界に対する造詣(ぞうけい)の深さが、行間からにじみ出ているように感じました。
また個人的には「潔さ」という心の美学も、武士道にはあると思いますが、
勇の心や誠の心に、潔さは含まれているのかもしれません。
武士道精神を身につけることは、私自身難しさを感じますが、
一つの目指すべき精神性として、心に抱(いだ)いておくことは、
現代の人にとっても大切なことなのかもしれません。