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禅の不立文字という教え
(出典「photoAC」)
そういえば禅には「不立文字(ふりゅうもんじ)」という教えがあります。
「不立文字」というのは文字に捉われずに、自分の心で仏の心の真髄をつかむことを勧めた教えです。
言葉は受け取り方によっては間違って受け取られることもありますので、
文字はキッカケにはなるとしても、それが全てではないという教えになります。
個人的には真髄や極意や奥義のようなものは、イメージで言えばボールの真ん中で、言葉はボールの表面だと考えていて、
言葉をいくら尽くしても、それは心の表面を表しているだけで、
心の真ん中にある真髄や極意や奥義というものは言葉にできないものではないかと考えています。
言葉とは何か?時には言葉を使うのに勇気が必要?
(出典「photoAC」)
また私たちは言葉を使えるにも関わらず、それでもすれ違うことがあります。
それは体験していることの違いや、そこからくる根本的な考え方の違い、立場の違いがすれ違いを生み出すと考えられます。
また心は言葉で表現することが難しいために、言葉を使っていてもどこか自分の心を語り尽くせていないことで誤解が生じることがあるのかもしれませんし、
ごまかそうとすれば一時的にその場はしのげても、後でごまかしがバレてしまえば信頼関係にヒビが入ることも考えられます。
また告白する時には勇気が必要なように、時に言葉を発するには勇気が必要な場合がありますが、
言葉にする勇気を持てないことで起こるすれ違いもあるかもしれません。
言葉を尽くすアイヌの教え
また私が読んだ本の記憶にはなるのですが、アイヌの人たちの言葉に、
「アイヌは言葉を尽くすから平和なんだ」という言葉があります。
言葉で心を表すことが難しいとしても、またお互いのそれまでの環境や考え方、立場の違いがあるとしても、
お互いが自分の心を見つめて、お互いが素直な正直な言葉を尽くそうとすること、
またお互いが相手の置かれた環境や立場を理解しようとすることで、すれ違いが解消できる道はあるのかもしれません。
あるインディアンの話
またインディアンの話に、こんな話があります。
ある少年が初めてバッファローの狩りに参加した時のことです。
その少年はバッファローを一頭仕留めることができたのですが、
矢を5本も使っていたことが恥ずかしくなって、ごまかそうと考えたそうです。
ただその時に父親から言われた言葉が頭によぎります。
“「息子よ、嘘をつく者はみんなから愛されないということを覚えておけ。」”
その言葉を思い出した瞬間、本当のことを言うことを心に決め、父に正直に話すと、
“父は笑っていたが、自分の息子を誇りに思ったようだ。
私はこれも嘘をついて父をだますことをしないで正直に本当のことをいったおかげだと思った。”
(参照、引用元:アメリカ・インディアン 奪われた大地 創元社 P160~161)
人間、自分を良く見せようと考えると自分をごまかしたい気持ちが湧いてくると思いますが、
見る人が見れば分かることですので、そうした気持ちに流されずに言葉を正直に使うことは大切なのかもしれません。
また人に何かしてもらった時には、「ありがとう」と口にすることで改善する関係があるかもしれません。
物をもらって嫌な人はいないと言われることもありますが、
(時と場合によっては負担に感じること、感じさせることはあると思いますが)
人は誰しも認知欲という認められたいという願望を抱いていると言われますので、
何かした時に「ありがとう」と言ってもらって嫌な気持ちになる人がいるとは思えません。
そういう意味で、ちょっとした一言ですが「ありがとう」と言う勇気を持つことで改善する関係があると考えられます。
いずれにしても言葉も他の道具と同じようにいかに使いこなして、どう私たちの生活を豊かなものにしていこうとするか。
その点について私たちは言葉の使い方にもっと真摯に向き合う必要はあるのかもしれません。
終わりに
言葉はコミュニケーションの一つですが、言葉で笑いが生み出せることもあります。
また告白する時には勇気が必要なように、言葉を発するにあたっては勇気が必要になることもあれば、
ごまかそうとすればウソをつけるのも言葉で、また言葉で人を傷つけることもできます。
その他の道具と同じように言葉にも様々な使い方があり、使い方一つで良くも悪くもなることがあり、そこから生み出されるものも様々ですが、
少なくとも心にある本心と頭から発する言葉が一致するように心掛けることが、人との信頼関係を築くためには望ましいと言えるようには思います。